2011年07月20日

窓越しの玄界灘は碧かった。

玄海町.JPG
九州佐賀県の玄界灘に臨む、九州電力玄海原発に行ってきました。
ちょうど俳優の山本太郎さんが佐賀県庁に用があった日の翌日です。
車を飛ばして暑い暑い陽射しの中をはるばるとやってきました。
わざわざ来ては見たものの、町は寂れていて原子力で潤っているという印象の無い田舎町。
玄海町境には「こころゆめみるアトムの町」なんて看板が立っていましたが、鉄腕アトムの象徴する近未来はどこにも無く、退屈な、それでもほっとする我が故郷といった感じの、田も畑もある小さな町でした。
一本の県道を走れば左に町役場と立派な施設が建っています。かたやその向かいには崩れ落ちそうな日本家屋が町のメインストリートに何かを問いかけるように佇んでおり、この町の人たちは左車線と右車線に混在する不自然な風景に一切の違和感を感じないのだろうか……と心配になりました。
町の中心部で休憩することも無く、私は人気の無い暑い昼下がりを無機質な町役場前を通り過ぎ玄海エネルギーパークへと向かいました。

週刊誌、インターネット、テレビがかしましい話題ふりまく玄海原発3号機ですが、直接この手に触ることもできないので、九電玄海原発付帯施設である玄海エネルギーパークを見学することにしました。

駐車場には車が数台、どれも佐賀ナンバー。ただ施設の中に入っても車の台数ほどの来場者はいないので、関係者の車かと思われます。
見かけるのは作業着を着た関係者、施工会社か配管業者か。
浅黄色の作業着で手持ち無沙汰に施設内を歩く彼らは打ち合わせの時間をつぶしているようでした。

ちょうどガイドツアーが始まる時間だったので参加しましたが、私以外に参加者はいませんでした。
時間が平日の昼過ぎなのでもちろん当たり前のことでしょうが、あれだけテレビやマスコミを賑わした玄海原発という有名人に会ったつもりが、ここにあるのは何も変わらない退屈な日常の風景でいささか拍子抜けしたのも事実です。
通り一遍の説明を唐津出身のコンパニオンのお姉さんに聞くあいだ、要所要所で聞き耳を立てて従いてくる九電の職員さんは、子供ももう高校卒業だろうと思われる働き盛りの中年男でした。そんな彼がいそいそとしてこちらを気にするのを、なかばあきれるより笑ってみていました。つかず離れず、モニターの画面をふいたり、見慣れた窓外の風景をみてみたり、なんだかこれが一日の仕事だとしたら、会社として社員に対してとても失礼だと思うような脱力感を彼のために感じました。
そんな忍者を背中に従えて原発のリアクターが見渡せる3階まで行き説明を聞きました。
福島の事故以降、説明も多少変わったみたいですが、玄海原発は福島と違って加圧水型だから大丈夫だ、ということでした。
原発越しに見える海は広く大きくきれいだけど、日本に住む人はたいていこれと同じようにきれいな風景を目にすることができます。
ここだけが美しいわけではないし、ここだけが危険でもないということを改めて感じることができました。
日本を取り巻くどこにでもある美と凶。(それが当たり前のように54基もうまく日本を取り囲むように建てられていることにぞっとさせられる。)
そんな、典型的な日本の美しく、なんだか懐かしい海の景色を原子炉建屋越しに見ながら空調のほどよくきいた施設を後にして、勢い込んで来てみた割には、なんだか脱力するほどの肩透かしをくったものです。
現実は淡々として事故が起こるその日まで現状を維持していくのだなぁと感じました。
それはまるで未来への想像力の無い過去の旅をしたような、九州佐賀の玄海町訪問でした。
posted by 虹基金事務局 at 13:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年07月07日

西もひがしも

ちいさな旅
佐賀玄海町の岸本英雄町長は
九電玄海原発再稼動の了承撤回を表明した。
今後の動向が注目される。

近いうちに玄界灘を見に行こう。
実際にその場所に立ってみるとわかる事も多い。

海は広く大きくきれいだろうなぁ。
posted by 虹基金事務局 at 11:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年07月01日

コルネリウスの植民市

親子.jpg

「イタリアのナポリの近くにポンペイという遺跡がある。
紀元前から商業で栄えたこの都市は古代ローマ帝国に侵略された後も繁栄を続けた。
女神ヴィーナスに護られ、快楽都市としても有名なポンペイに突然の終止符が打たれたのは紀元後79年。今から1932年前の夏のことだ。
17年前に襲った大地震の復興がまだ完全に終わらない中、今度は近くにある火山ヴェスヴィオが火を噴いた。その日は一昼夜火山灰が街を覆った。
ローマに避難するポンペイ人もいたが、それでもその街に留まり続ける者も多くいた。
翌日、火砕流が発生し残った住民は逃げる間も無く一瞬にして呑み込まれた。そして1748年に発見されるまで長い間この街は眠り続けた。」


6月30日に各新聞がこんなニュースを流した。「子どもの尿からセシウム 福島の子ども10人全員から検出」
先日行った代々木の平和映画祭で福島の子どもを守る会のメンバーが声を詰まらせながら言っていたのはこのことだった。「6月30日に発表がありますから」と詳細を言わずに予告していたので何のことかわからなかったが、公式に発表されたのは彼らが守ろうとしている子どもたちにとって最悪のニュースだった。
たぶんそこで発言していた人の子どもも含まれていたのだろう、やりきれない苦しみと悔しさで今にも倒れそうだったが、そのとき会場にいる他の人々にはその深刻さがわからなかったと思う。

このニュースは、6月30日に大変な発表があると言っていた彼らが思っていたほど世の中は取り上げなかったと思う。当事者たちにとって客観的な事実として内部被曝を宣告されたのに、内閣府原子力安全委員会の班目春樹委員長は「十分低い値。健康への影響は疫学的に考えられない」との認識を示した。

疫学的に考えられないのでなく、何でも「人ごと」としてしか考えていない人物にとって子どもが内部被曝していることなど無用な心配なのかもしれない。
それでも、自分もかつて子どもだった時分に親や周りの大人たちに守られて成長したことを思い出したら、もう少し違う発言があるはずだ。
少なくとも6歳の何も知らない無垢な子どもに「せしうむってなーに?」と検査の結果を聞かれた親の立場になってみるといい。自分の孫に「大丈夫だよ、何の心配もないから。」と彼は言い切ることができるだろうか。


日本国中の皆が責任のある立場にいる者たちの発言や動向に注目している。ここで誤れば後に多くの国民に大きな禍根を残す。彼らにその覚悟があるのか。

私たちはずっと忘れない。「大丈夫だ!」と断言した学者、政治家、責任者たちの名前を……。


「子孫に金を残しても、後世に犯罪者としての汚名を残すなよ!」

posted by 虹基金事務局 at 16:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記